冨坂が脚本を書いたエビス駅前バープロデュース『あの日のふたりプレイ』を観てくる。若干脚本の相談に乗ったりしたので書きづらい部分あり。とりあえず後半の明らかな筆力の息切れ感と、他2・3については帰宅後の脚本会議にて本人に指摘。ただ、外部仕事にしては自分のフォームで書いていたし、ちゃんとテキストで笑いを獲っていたので、座付文芸助手的視点からは一安心の仕事であった。ところでその視点は何目線なのだ。
書きづらいとは言ったが、あまりに薄味なのでやっぱり少し書こうか。
脚本的にはラストの解決パートがやはり雑。そこにドラマ的意味かロジック的快感がないと、カタルシスは生まれない。あれでは「解決するための解決パート」「お話を終わらせるための結び」でしかない。前半に比べて、情報量も少ないし。エピローグに仕掛けがあるので、それで少しは助けられたが、もしあのシーン(しかも本筋とは関係が薄い)がなかったら観客には不満が残るラストシーンになるだろう。また、少しキャラクターについての情報が薄いように感じた。少なくとも物語の伏線になるべき情報、特に「女性店員の仕事に対するプロ意識」を解決パートに使うなら、そこにワンシーン使うかせめて台詞で説明しなければならない。
演出的な面で言えば、客席との距離に対して演技が「コメディ的」(カッコ書きですからね)過ぎるように思えた。「笑いを獲らなければならない」という意志は見えたし、あの劇場(と言うよりただのバーである)で客席を巻き込んでコメディの場を立ち上げるのには必要な措置だったのかもしれないが、それによってリアリティを失い、逆に客席との一体感が薄まってしまっっていたように感じた。「もうちょっと生々しくやった方がウケんじゃねえかな」てことだ。決してコメディに向いてないフィールドだったから、しょうがないのもわかるんだけど。ただ、それによって「劇中劇的演技」と「演技」の差が観えてこなかった、というマイナスも生んでしまったので、そこのアジャストは必要だったと思う。そのダイナミクスの変化がラストシーンでは観たかったのだ。まあ、前述したようにテキスト的に甘くなっていたので、それも一因ではあるが。
うーん、なんか口五月蠅い感じになってしまった。
いやいや、普通にに声出して笑ったし、退屈もしなかったのです。ただコメディだと目線がどうしたって厳しくなるのだ。
2016年03月14日
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